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CULTURE

人生と床屋 | 第3回『理容ナグモ』(亀戸)〜下町に潜む、改造ハサミと元カフェー建築〜

2025年1月11日。

東京の東側、亀戸の住宅街を歩いていた。

ごくありふれた下町の風景の一角に、突如として時空が歪んだような場所が現れる。

「理容ナグモ」。

ミントグリーンの格子戸と回転灯、そして昭和の手描き看板特有の力強く描かれた「理容ナグモ」の文字は、まるで三木聡の映画に出てくるセットのような佇まいだ。

「かわいい」という言葉だけでは片付けられない、奇妙な磁場のようなものを発している。だが、ここは観光地でも博物館でもない。現役バリバリの床屋なのだ。

転用された「カフェー」の記憶

この建物がただの古民家ではないことは、その妖艶なファサードを見ればわかる。

昭和33年の売春防止法施行まで、このあたりは「赤線」と呼ばれる地帯だった。この建物もかつては「カフェー」——つまり、特殊なサービスを伴う飲食店として使われていた遺構だという。

現在の店主、名雲徹夫さんの父親が、新橋の名店「名雲調髪館」での修行を経て、この亀戸に店を構えたのが昭和34年。赤線の灯が消え、行き場を失ったカフェー建築を居抜きで借り受け、床屋へと転生させたのだ。

新橋の名雲調髪館(中央で腕を組んでいるのが名雲徹夫さんの父・当時26歳)昭和16年11月撮影

左が現在の店主 名雲徹夫さん

男たちの欲望を吸い込んできた壁や床は今、石鹸とポマードの香りに包まれ、近所の住人たちの髪を整える場になっている。

70本のハサミと、馬の尻の革

中に入ると、外観のインパクトに負けない濃密な空間が広がっていた。

使い込まれた赤い椅子、30年以上現役だというクーラー。古いけれど、決して薄汚れてはいない。隅々まで手入れが行き届き、道具への愛情が滲み出ている。

「俺は親父ほどの腕はないから、ハサミに工夫をしているんだよ」

名雲さんは照れくさそうに笑うが、その「工夫」のレベルが狂気じみている。


棚に整然と並ぶのは、約70本ものハサミ。

使い捨てず、全て取っておき、自分で刃の数を調節したり、研磨機で削ったりして「自分仕様」にカスタムし続けているというのだ。

「いいハサミってのは、ひねりと剃(ゾ)りが命なんだよ」

見せてくれたハサミの刃には、独特の溝が刻まれている。一本刃の剃刀も、今どき珍しい「馬の尻の皮」を使って自ら研ぐ。

60年以上変わらぬ店構えを守り、道具を慈しむ。その姿勢は、効率最優先の消費社会に対する静かな抵抗のようにも見える。

「1ヶ月後」に完成する髪

名雲さんのハサミ捌きには、独自の哲学がある。

昨今の美容業界への皮肉混じりの言葉が、妙に腑に落ちた。

「最近の美容室ってのは、切った瞬間がピークだろ。だから1ヶ月とか2ヶ月おきに行かなきゃいけなくなる。ああいう商売臭いのが大嫌いなんだよ」

「俺が切る髪は、1ヶ月経つといい感じになるから、みんな3ヶ月くらいは来ないね」

商売っ気がない、と言ってしまえばそれまでだ。しかし、これぞ職人の矜持だろう。

切った直後の見栄えよりも、客が日常に戻った後の「持ち」を考える。だからこそ、50年来の常連が通い続け、遠く神戸からわざわざこの椅子に座りに来る客がいるのだ。

店内にある木彫りの熊や花は、そんな客たちからの贈り物だという。

帰り道

店を出ると、再び亀戸の平凡な住宅街に戻った。

鏡の中の自分はさっぱりとしているが、名雲さんの言葉を借りれば、これはまだ「未完成」ということになる。

本当のピークは1ヶ月後にやってくる。

髪が伸び、馴染んだ頃にふと、あのミントグリーンの格子戸と、頑固で優しい職人の顔を思い出すのだろう。

消えゆく昭和の幻影の中で、今日もハサミの音だけが小気味よく響いている。

DATA

理容ナグモ

住所:東京都江東区亀戸(亀戸駅から徒歩20分ほど)

創業:昭和34年

備考:忙しくない時は、お店の外観と内観を撮影させていただけるそうです。このレトロな魅力に惹かれてよく写真だけを撮りにくる人もいるそう。

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えこだりょう

えこだりょう

編集者 / ライター

人々の生活、衣食住に興味があります。 最近では主に職人さんとその手仕事(アナログ的な技法)を取材。 その他にも商店街・ピンク映画館・グッとくる看板・居酒屋のトイレ・シニアのファッション・宗教施設グルメ・入りにくい店などを追っています。

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